せんそうがはじまる
せんそうが なぜいけないのか?
このことは かのうせいということばで ひもといてみると いちばんよくわかります
それは きょくげんまで ひとのかのうせいをうばうからです
おおぜいのししゃがでます
せんししゃだけではありません
いっぱんじんも おんな こどももしにます
せんそうはいっぱんじんもへいきでころします
ばくげきして へいしだけしかころさない というようなことはありません
むごんかん という せんぼつがくせいのえ だけを てんじしたびじゅつかんにいぜんいったことがあります
*せんぼつがくせいとは せんそうにいって しんだがくせいです
さくひんをみると たんなる おなみだちょうだいではなく さいのうと そのかのうせいがぴかぴかとひかったえが たくさんあるのです
かれらは せんそうにいって かえりませんでした
もっとえがかきたかったのです
かくことをたのしみたかった
じぶんのかのうせいが いきつくところをみたかったでしょう
とちゅうでぶっつりと かりとられてしまったかのうせいが ならんでしました。
かれらのようにとくべつなさいのうがなくても ひとのねうちはかわりません
かぞくですごすこと ばかばなしをすること くさばなをそだてること つりをすること あらゆるかのうせいはまもられなければなりません
かのうせいが つみとられるのは ほろびへのみちです
くにや しゃかい かぞくや かいしゃ いろいろなきょうどうたいは ひとのかのうせいをなるべくうばわないような ありかたをめざすべきなのです
せんそうでは ししゃがでるだけではありません
けがにん いっしょうなおらないきずをおうひともでます
せんとうちゅうのきずのほかに ほうちされたじらいであしをふきとばされたり れっかうらんだんでひばくしたり かがくへいきでしょうがいをうけたり むすうのけーすがあります
また じゅうぐんしたへいしが ひどいとらうまをかかえる ということも きんねん くろーずあっぷされてきました
それはそうです
ひとをころすこと
じぶんがとつぜんころされるかのうせいがあること
そういうぶれっしゃーがあたりまえで そこにさらに ぶたいないのいじめや いろいろなそうていがいのじたいがおきてくるのです
かいしゃづとめをしているだけでうつになるのに とらうまにならないわけがありません
へいしも もともとは ぼくやあなたとおなじ ふつうのひとです
へいしのくんれんは そういうころすか ころされるかのかんきょうのもとで へいぜんとして めいれいをまっとうする ようなそんざいにすることです
いわば ひとのこころをころして せんとうようのろぼっとになるのです
これほど ひとのかのうせいをうばうものはありません
せんそうになれば せいしんせいかつをむしばまれるのは へいしだけではありません
いっぱんのひとも くにがせんそうするのにはんたいすることはできなくなります
このようなぶんしょうをかくだけで ろうやにいれられたり きびしいじんもんをうけるかもしれません
くにのすべてをあげて せんそうをするのに あしをひっばるのは ひこくみんだ ということになるのです
ぐんじんや けいさつがいばり きにいらないものは たいほ だんあつします
じけいだんといって それにきょうりょくするひとたちも たくさんでてきます
みっこくするひともいますからうかつにせんそうはんたいとはいえません
はなしあうこともきけんなのです
きょういくや れきしもそのようにぬりかえられて ますこみもせいふにきょうりょくいっしょくになります
げんろんはもちろん ぶんがくや らくごまんざいのようなえんげい げいじゅつも きびしくきせいされます
それが いかにひとのかのうせいをうばうかわかりますでしょうか
せんそうはもうはじまりかけています
めにみえるかたちは いちばんさいごにきます
せんそうはんたい というすろーがんをいうのは どれくらいゆうこうかわかりません
それよりも あなたがいきているあらゆるばしょで かのうせいをいきいきとさせてください
かのうせいをへらすほうに かたんしないでください
じぶんのかのうせいをひらき たのしんでください
ひとのかのうせいをじゃましないで ひらくようにはたらきかけてください
それが せかいのかのうせいとつながっているのです
かのうせいをつかえば かのうせいはふえます
かのうせいのいまじねーしょんがなければ とじていきます
あらゆるばしょでかのうせいをひらいていく
それがわたしたちにできることです
みどりがめ は きらわれもののようだ
どこかのいけで みどりがめ をほかくしている どうがをみた
みどりがめは せいかくには みししっぴあかみみがめ というらしい
ほかくといっても れいとうしてころしてしまうので くじょである
はんしょくしてこまっているようだ
がいらいしゅなのに まわりじゅう このかめばかりになってしまった
あみをしかけて さかなのあたまをいれて すうひきのかめをとっていた
あれなら かめよせのほうがいい
どこかで かめのくじょに ほじょきんをだしていたら 『はめるんのふえふき』のように かめをとりにいこうか
たくさんのかめをすーぷにして みんなにふるまおうか
とくぎ かめよせ これはとおくから まっすぐに くるところがわかるよ pic.twitter.com/AE1cjavnuH
— symbolist (@muramatsukouhei) 2017年7月11日
なぜ ひらがな? / ひらがなは あたまと こころをかっせいかする!
じんるいきゅうさいのせっけいずは まだまだつづきます
せっけいず
とてもきちょうな せっけいず です
だって ほかのところにはないでしょう?
でも ここでちょっとほかのわだいをはさみます
というのは ひらがなは とてもよみにくい
なんで ひらがななのかな とおもっているひともいると おもうのです
そのはなしを まだこのぶろぐのさいしょのほうで しておきます
どうして ひらがなは よみにくいのでしょう?
「せんにん」とかいたら じつにたくさんのいみがあるのです
かんじをあてると 5つくらいの かのうせいがあります
そのなかから どくしゃは このいみだと とくていしないといけません
そこであたまをつかいます
ぱずるみたいです
かんじのほうがあたまがよさそうです
でも ひらがなだけのぶんは わざと あたまをつかわせるのです
こんなふうにじとじがくっついてわかちがきをしないともっとあたまをつかうとおもいます
でも それではあんまりなので じとじのあいだを いみのきれめで すこしおおめにいれるようにしています
どくしゃのかたから 「よくかんでたべよう みたいなきもちです」 とめーるがきました
それはせいかいです
かんじはべんりすぎるのです
ひとめみると だいたいかいてあることがわかってしまう
あるいはわかったきもちになってしまう
だいたいのひとは かいてあることをひとめではあくして これはじぶんにかんけいある ない すきだ きらいだ さんせいだ はんたいだ ということをはんだんしてしまうのです
いわば しょうりゃくもーどでよんでいるのです
このきじをよんでください
おもしろいきじです
えーあいは るいすいとかくりつで ぶんしょうにはんのうするのです
ぶんしょうそのものは よめていない
それとおなじように ぶんしょうがよめていないこどもがふえているとかいてあります
こどもがよめていないのなら おとなになっても よめていないひとがいてもおかしくありません
たしかに そのちょうこうを せんにんは かんじているのです
ものごとを こてさきでする といいますね
これは こしや おなかから ちからがでていない
ぜんしんのたいじゅうがのっていないことをいいます
わたしたちは こてさきで かき よんではいないでしょうか
わたしたちは こてさきで はなし きいてはいないでしょうか
わたしたちは こてさきで せかいをとらえては いないでしょうか
わたしたちは こてさきで かんじることになれてしまったことで かのうせいをうしなってはいないでしょうか
こどもの もじをおぼえたてのころのように よむ
そこから いみがつたわって しらないことをしるよろこびがあふれる
あたまとこころに もういちど かくこと よむことのかのうせいをおもいださせたい
それは 「いつものかいろ」とは ちがうところにひびくのです
よむだけで あたらしいかのうせいが かいはつされているのです
かめは なにをかんじるか
とくぎ かめよせ●これは くさのかげですが かめがかくじつに じわじわとよってくるのが わかります。 きがつくと あしもとにべつのかめがよってきていたので きゅうに かめらをそちらにふって おわります pic.twitter.com/Jc5fnrmIpM
— symbolist (@muramatsukouhei) 2017年7月9日
ある とくべつなこういによって なぜ かめがよってくるか?
これは わかりません
じっさいに せんにんがしていることは てをかるくうごかしているだけなのです
これが なにか かんかくにたいして しげきがあるのだとおもいます
たとえば めにひかりがみえる
みみに おとがきこえる
はなに においをかんじる
そのように へんかんしているのかもしれません
かめは そんなにとおくのものをみる のうりょくがないので ちょくせつ めで しかくてきに はんのうしているのではないのです
ですから つよいひかりがみえるとか おいしそうなにおいがするとか いいおとがするとかに へんかんされているのではないかとおもうのです
あるいは まったくちがう かんかくが あるのかもしれません
かめの こうらは さいしんのれーだーににています
ここに なにか ふしぎなかんかくがある かのうせいがあります
じんるいのはめつ そして ききについて
じんるいのきゅうさい というからには そのはんたいのじょうきょう ききてきじょうきょう が なくてはいけません
こんかいは そのことについてかんがえます
ききとはなにか?
それは ほうっておけば とおからず はめつにむかう というじょうたいです
せかいがききだといわれるのは べつに めあたらしいことではありません
にほんでは せんねんもまえに まっぽうしそう がはやりました
さいきんでは まやれき とか のすとらだむす とか ふぉとんべると とか あせんしょん とか わくせいちょくれつ とか。
はめつとは なんでしょうか
じんるいがぜつめつすることでしょうか?
それはひとりのこらずいなくなること?
10にんくらいのこったら どうでしょう
あるいは 99ぱーせんとがしんで 1ぱーせんとがのこったら?
それは げんみつには じんるいぜつめつではない
では 50ぱーせんとがしんだら?
それはぜつめつとはいわなでしょう
では はめつでしょうか?
わたしたちのめからは じゅうぶんに はめつてきにみえるとおもいます
せかいじんこうは 70おくにんといわれています
そのなかの 35おくにんがしぬじたいがきたら わたしたちは せかいのおわり とかんじるでしょう
すうじは ちゅうしょうてきで こわいですね
50ぱーせんとくらいなら まあまあだな とおもってしまいますからね
しぬほうの50ぱーせんとに じぶんや かぞく ともだちがはいっていたら どんなにかなしくて ひさんでしょう
はちのすや ありのすを わたしたちはみることがあります
「むしけらのくせに ちゃんとしゃかいせいかつを いとなんでやがらあ」
とわたしたちは かんしんしますね
それとおなじように ちきゅうじんるいをみおろしたら どうでしょう?
はやまわしにしてみると、どんどん いそがしくびるをたてたり あちこちでせんそうをして なかまをころしたり まちをこなごなにはかいしたりしています
どんどんねっとわーくがはったつして じょうほうがとびかったり おかねがうごいたりするのは たいへんこうどです
このようにみると ひとというものは たいへんげんきで かつどうてきにいろいろなものをつくりだしています
おおきな しぜんさいがいは ときどきありますが そんなことにめげるいきものではありません
でも かくへいきや かくのはつでんしょは たいへんきけんで このいきものがぜんめつしてしまう かのうせいがあります
かくへいきは ちきゅうじんるいを なんじゅっかいもはめつさせられるだけもっているそうです
いっかいはめつさせれば じゅうぶんなのにね
そういうじょうたいになってから なんじゅうねんかの つきひがたっています
いままでは かくへいきは さほどつかわれていません
いちばん だいだいてきに ひとのいるばしょに かくばくだんがつかわれたのは にほんです
せかいさいだいの げんぱつじこがおきたは どこでしょう?
にほんです
この ちいさなしまぐにに なぜかしゅうちゅうしています
そして このちいさなくにの げんぱつじこをみて ほぼ せかいじゅうのくにぐにが げんぱつはおそろしいし わりにあわないからやめよう というながれになっています
しかし にほんは とうじしゃであるにもかかわらず やめません
このくにのせいふは やめるか? つづけるか? とかんがえたり なやんだようすがありません
つづける つづける つづける しゅくしゅくと つづける どりょくをしています
いわば やめる という せんたくしが さいしょから ないのです
じんるいの きゅうさいは かのうせいを ひらくことだと かきましたが こんなだいじなことに せんたくしが とじられているのです
げんぱつじこでは おおくのかのうせいが とじられました
ひとつのかのうせいをとじると ばたふらいえふぇくとで いろいろな かのうせいがとじるのです
じんるいは かくによって おおきすぎるちからを えました
そして ものごとをけっていしていくたんいも おおきくなりました
くにというおおきなたんいがきめることが ひきかえせないえいきょうを ひとりひとりのひとにあたえるようになりました
まちがったみちをいったときに まちがっていたとにんしきして よいほうこうにしゅうせいするのを しこうさくごといいます
しかし いま きょだいなえいきょうのあるけっていに しっぱいすることは きがるにしこうさくごするには おおきすぎるきけんがあるかもしれません
しかも しっぱいしたときに よいほうこうに ほうこうてんかんできないで おなじほうこうにつきすすむ
かのうせいをひろくみるしやがない
これを ききといいます
ききとは かのうせいをうしなうこと です
こころのちいさなききから せんそうや おおきなぼうりょくのききまで つながっています
ひとつのおりものです
かのうせいをうしなったものが おりなす ききのめかにずむ なのです
あたまがつかれましたね
またじかい
ふじいよだん と しんぎゅらりてぃ
しょうぎのせかいで 14さい ちゅうがく2ねんの ふじいよだんが ぷろになってすぐに29れんしょうしました
たいへんな わだいと にんきに なりましたね
どうして こんなにつよいのでしょう?
それは さいのうや どりょくは もちろんですが こんぴゅーたそふとを じょうずに くんれんにとりこんだからです
しょうぎのきし は もともと てんさいのあつまりですから てんさいも どりょくかも あたりまえのはなしです
それだけでは これほど さはつかなかったのです
こんぴゅーたーからまなんだから つよくなったのです
しょうぎ いごのせかいでは ここすうねんで あきらかに ひとより こんぴゅーたーがつよくなってしまったのです
しんぎゅらりてぃ を ごぞんじ でしょうか?
かんたんにいうと こんぴゅーたがにんげんをこえるひ です
いろいろむずかしそうな ぎろんがありますが かんたんにみればいいのです
しょうぎと いごにおいては このしょうげきてきなじけんが すでにおきたのです
そこでなにがおきたか をみれば これからのせかいがわかります
2つのことにちゅうもく しましょう
1つは こんぴゅーたーは ぷろがまったくそうぞうしない てをさすことがある ということです
これは いごでもおなじです
ぷろがもんだいがい として よまない いがいなてをさすことがあるのです
ぷろは なんじゅってもさきをよみますが ぜんぶのえだわかれをよむわけではありません
すじがわるい とよまずにすててしまう らいんがあるのです
それは しょうぎのかんかくであり でんとうてきな りょうかいじこうであり びいしき きせいがいねん でもありました
こんぴゅーたーは そのぷろがすててしまう すじのなかから いがいな さいぜんしゅを さすことがあるのです
いご しょうぎは たいへん りちてきな ひとのずのうのぎりぎりまでをしぼりだすような げーむです
そのせかいにも たいへんに じゅうらいのものにとらわれた しこうぱたーんがあったということです
これがだい1のてん
だい2は その こんぴゅーたーのちからを すなおにきゅうしゅうするちからのあった ふじいよだんがでてきたことです
かれは まだそだちざかりなので すぽんじのように きゅうしゅうできるでしょう
*
これをよのなかぜんたいにあてはめると また2つのことがでてきます
とおくないしょうらい えーあいは さまざまなしゃかいもんだいにも かっきてきなかいけつをもたらすでしょう
てきせつなぷろぐらみんぐさえあれば むずかしいもんだいにも ひとのきせいがいねんをこえた かいけつをもたらすかのうせいは たいへんたかいです
そこには ぷろぐらみんぐするひとのちせいがいります
また かぎられたひとびとのりえきではなく じんるいのきゅうさいのためにつかわれることもじゅうようです
だい2のてんは これからふじいよだんのような こんぴゅーたーにそだてられた てんさいが あらゆるせかいにうまれてくる ということです
したがって かのうせいのとびらが おおきくひらかれるのです
わたしたちは じぶんのかのうせいを といかけ ひらきながら あたらしいじだいにそなえ またなければ なりません
もし わたしたちが かのうせいにめをむけなければ この2つのかくめいは かいかしないのです
*
さいごにたまたまみかけた ふらんすのてつがくしゃのきじをしょうかいしましょう
このようにしんぎゅらりてぃのはなしは ずいぶんちゅうしょうてきにかたられているのです